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旅したいね~

 昨今の感染症の影響も大いにあるとはいえ、どちらかといえば自身の懐事情のまずさゆえに、旅をする頻度がめっきり減ってしまっている。まずさの理由は置いておくとして、2年ほど前までは3か月に1度は旅をしていたことからすると、隔世の感が否めないほど自宅に引きこもりがちになっているのである。

 あまりに旅をしなさすぎるせいで旅をしたいという欲すら薄れかけていたのだが、先日『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』という本を読んで旅への欲が再燃している。〝サガレン〟とは、サハリンの日本における旧称であり、宗谷海峡をへだてて北海道の北に位置する島を指す。『サガレン』は、この島をかつて旅した日本の作家(北原白秋林芙美子宮沢賢治など)やロシアの作家(アントン・チェーホフ)の足跡をたどりつつ、何度も支配者が入れ替わり国境線が引き直されたサハリンの歴史をなぞる紀行文であり、非常に面白く読んだ。

 なかでも面白かったのが、かつてサハリン(樺太)が日本人にとって観光地となっていたという事実である。

 日露戦争の結果、1905年に締結されたポーツマス条約という講和条約によって、日本はサハリン島の南半分を統治下に置くことになった。1907年に樺太庁という行政機関が置かれ島内での鉄道の敷設が進み、1923年に稚内樺太大泊港、現在のコルサコフ)間の連絡船が就航するなどインフラが整ったことによって観光客が増えたらしい。

 正直、樺太に観光するところなどあったのだろうか?と疑問に思ったが、樺太には本土にはないものがいくつかあり、それらが観光客を呼び寄せた。その1つは、地上の国境線である。漫画『ゴールデンカムイ』でも国境が出てきたので、ご存知の方もいるかもしれない。北緯50度でロシアとの間に引かれていた国境線には、境界であることを示す国境標石がいくつかの箇所に置かれており、樺太の観光地でもメインとなる扱いだったようだ。国内で到達可能な最北端・最東端などの地点に訪れたくなる気持ちはとてもよく分かるので、島国に住む人にとって地上にある国境線はより魅力的な場所であったに違いない*1

 国境だから物々しい雰囲気なのだろうかと勝手に思っていたのだが、詩人の北原白秋は、樺太ツアーの紀行文である『フレップ・トリップ』の中で、国境を訪れた際の様子を「国境とはいえ、警備隊も監督官もいるわけではなし、出入自在であるようにも見られた。」*2と書いており割とのどかであったらしい。僕は過去に朝鮮半島板門店にある軍事境界線をツアーで訪れたことがあり、韓国軍・北朝鮮軍の兵士がそれぞれの境界線を警備していたことが印象に残っていたので、意外だった。もっとも白秋が参加したツアーは1925年の出来事であり、1938年に日本からソ連へ国境を越えて亡命した事件が起きて以降は法律が制定され国境の取締が厳重になったようである。

 国境線のほかにも、養狐場(毛皮をとるために狐を大規模に飼育していた)など本土では見られない場所がいくつかあったらしいが、なかでも魅力的な観光地に思えたのが海豹島という島だ。ロシアではチュレニー島と呼ばれている無人島で、オットセイ、トドやウミガラスの繁殖地として現在でも有名らしい*3。前述した『フレップ・トリップ』という紀行文の中でも旅のクライマックスで海豹島を訪れているのだが、終始妙にテンションが高い文章のなかでも海豹島を訪れた際の文章は圧巻で、白秋はオットセイの群れを目の前にこんな調子で描写している。

 肉眼で観た、全く。
 累々とした被服廠の死屍、まるであの惨憺たる写真のとおり*4だが、これはまさしく現実に活動し、匍匐ほふくし、生殖し、吼哮する海獣の、修羅場の、歓楽境の、本能次第の、無智の、また自然法じねんほうにの大群集である。
 ぎゃあ、わお、がお、うわァああ、わお、お、お、
 ぎゃお、うわうう、ぎゃお、わお、わお、おう。


 日常では絶対に見ることのない、まさに異境の地の光景の描写からは、実際の光景を自分の目で見たくなってしまうほどの興奮が伝わってくる。異境は文章の題材にしやすいのか、久生十蘭という小説家も、その名もずばり『海豹島』という小説を書いている*5。読んだことがなかったのでこれから読んでみようと思う。

 「海豹島」などの語句で検索すればすぐに島の画像は出てくるものの、実際にその場に旅をしてみたくなるのが紀行文のいいところだ。再び旅への意欲に火をつけてくれた『サガレン』に感謝である。旅をする人、そして同書の「私に唯一わかるのは、旅の中では、ふと光がさすように、苦しみから解放される時間が訪れることがあるということだ。」という文章が気になる人はぜひ読んでほしい。

*1:余談だが、有人国境離島法という法律に基づき、内閣府「日本の国境に行こう!!」というプロジェクトを2017年より推進しているのだが、コロナ禍以前からあまり盛り上がっていない。

*2:フレップ・トリップ』より。同書は、冒頭に紹介した『サガレン』でも紹介されている。

*3:2009年には、NHKの番組『ダーウィンが来た!』で「満員電車で子育て!? ウミガラスの島」として特集されていたようである。

*4:被服廠とは陸軍の軍服を製造する施設であるが、ここでは東京にあった陸軍被服本廠のことを指していると思われる。関東大震災時、陸軍被服本廠に避難してきた住民が火災に巻き込まれて約4万人が亡くなる惨事となった。白秋はその報道写真を見たのだろう。

*5:青空文庫で読めるぞ。